2009年10月29日木曜日

上海魯迅公園の今昔

 10月中旬、中学の同窓会有志で上海へ行きました。中学時代の恩師が、上海租界で20歳まで過ごされ、太平洋戦争前のさまざまな事件に遭遇されたことに興味をそそられ、長い間放置していたパスポートを更新しての上海への旅でした。印象に残った1コマを恩師の「上海・租界・戦争と私」を参照しながら紹介します。
 1932年4月29日、天長節(昭和天皇の誕生日)の大祝賀会が新公園(現在の魯迅公園)で挙行され、小学校に入学したばかりの恩師も参加されていた時、爆弾事件が発生しました。騒然とした中、当時の恩師は何が何だかわからず教師に引率されて帰途に着いたとのことでした。これが重光公使や野村海軍中将など日本の要人が死亡・重傷を負った事件だったのです。
 1945年9月、杖をついた重光外務大臣?が、ミズリー艦上で敗戦の調印をする姿を教科書の写真で見たことがある方は多いでしょう。恩師が遭遇した魯迅公園での爆弾事件で負傷し片脚をなくした重光公使だったとは・・・・・ また、日米開戦前、行き詰る日米交渉の代表の一人が同じくこの事件で片目をなくし独眼となった野村海軍中将だったとのことです。
 そんな曰く因縁のある魯迅公園へ興味津々で出かけました。公園に足を踏み入れた途端、目を見張りました!公園のいたるところで大勢の中年の男女がグループになってダンス(オクラハマミキサーのようなもの)や太極拳や剣舞のようなものを陶酔したように踊っているではありませんか!70年以上前の事件は、中国の人々にとっては抵抗の1断片でしょうが、想像していた歴史の1コマと目前の光景の落差に驚きました。
 日本の公園ではあまり見かけなくなった光景ですが、平和な社会だから誰に憚ることなく悠然と身体を動かすことができるのかなとも思えた、のどかな魯迅公園でした。


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